世田谷通りは世田谷三丁目の信号の所で二又に分かれるが、直進して左にスーパーのオオゼキのある所から右側に上町の駅を見て、ずっと世田谷線に沿うように北上していく一方通行路がある。この道、行政上の名は「瀬田貫井線」なんていうらしいが、北進した先に世田谷八幡宮や豪徳寺、さらに菅原天神といった由緒ある社寺が存在しているから、おそらく鎌倉街道の1つに数えられる古道だろう。
上町の駅を出て、この通りに入っていくと、まずすぐ右裏に世田谷線の車庫が垣間見える。桜一丁目のあたりには、年季の入ったアトリエ風の棟を付けた、昔の世田谷らしい家がぽつぽつと残り、そのうち前方に見えてくる木立ちが世田谷八幡宮の鎮守の森だ。
八幡の境内に立ち寄っていこうと思ったとき、右手の宮の坂駅に隣接する区民センターの一角に置かれた、古い保存車両が目に入った。これは世田谷線の車窓越しに眺められるけれど、玉電(世田谷線の前身)の後、江ノ電で長らく活躍していたデハ80形(車番は601)の車両だ。
世田谷八幡宮本殿
観客席付きの土俵
世田谷八幡宮の境内へ入っていくと、ここの見所はなんといっても崖際に築かれた観客席付きの土俵。源義家の時代にはすでに祝い事の相撲が取り行われていたらしいが、いまも秋の例大祭の折に近所の東京農大相撲部の力士による奉納相撲が催されるという。
世田谷線の線路を挟んだ反対側の東方に見える森が豪徳寺。参道の松林に始まって、山門をくぐった先の三重塔、仏殿、本堂、井伊直弼の墓……見所の多い古刹だが、近頃の人気はダントツで招福殿の招き猫。殿堂のまわりにびっしりと並べられた招き猫の群れの前に、とりわけ外国人観光客が群れをなしていた。
豪徳寺は本堂北裏に広がる雑木林(ケヤキとヒノキが目につく)と墓地の景色が、さびれた武蔵野のムードで案外気に入っているのだが、そんな森をフェンス越しに眺め歩くと寺の北側に、最近一般公開された洋館「旧尾崎テオドラ邸」が建っている。
豪徳寺
ずらりと並ぶ招き猫は圧巻!
明るい水色の塗装が印象的な木造洋館。その名は男爵・尾崎三良(さぶろう)の令嬢テオドラに由来するものだが、英国人ハーフのテオドラは後年、〝憲政の神様〟といわれた政治家・尾崎行雄の夫人となるので、尾崎の名は両者にかかっているのかもしれない。ちなみにこの素敵な家は明治21年(1888)に六本木の交差点近くに建てられ、尾崎家が去った後、一旦解体されて昭和8年(1933)からこの地に存在している。数年前に取りこわしの話がもちあがったとき、この家に魅了された漫画家・山下和美さんが保存プロジェクトの発起人となって、内部をミュージアム風の仕立てに整備して、この春から一般公開が始まった。
西洋童話に出てくるような階段、ランプ、廊下の呼び鈴……と建設当初のインテリアが多々残された館内をそぞろ歩いて、カフェスペースで紅茶(アフタヌーン・ティーも楽しめる)を一服した。
上町から北上してきた道は、宮の坂の駅を過ぎると世田谷線の内側に入って、豪徳寺駅へ続く商店街の雰囲気(招き猫グッズを扱う店が増えた)になってくる。
明るい水色の外壁が印象的な旧尾崎テオドラ邸
時代を感じさせる階段
1階カフェでちょっとひと息
世田谷線沿いを豪徳寺商店街へ
豪徳寺駅前の小田急線ガードをくぐると、商店会の名称は「山下」(世田谷線の駅名)になって、くねくねした道筋には古い個人商店が目につき始める。豪徳寺せんべいを売る上保商店というのが目に入ったが、「上保(うわぽ)」の姓は世田谷に多い。「シスター洋装店」という魅力的な看板の店は、おそらく昭和前半には存在したような佇まいをしているが、戸もショーケースも閉ざされている。
赤堤通りを過ぎると、あたりは住宅街の景色に変わって松原大山通りと菅原天神通りとに枝分かれする。今回の進路は道なり左側の菅原天神通りだ。ゆるやかな坂を上って、往年の最高裁判所公邸跡の緑地公園(赤松ぼっくり庭園緑地)やら、ちょっとそそられる屋敷づくりの料理屋やらを横目に歩いていくと、やがて、すっくと伸びた一本松が入り口に立つ菅原天神がある。さほど広い境内ではないけれど、菅原道真公ゆかりの神牛の像(なぜると願いがかなう)があり、受験合格祈願の絵馬がずらりと提がっている。東京の天神様は湯島や亀戸など下町のイメージだから、世田谷のこの辺に見つけると、へーって気分になる。
この道は2、300メートル先で甲州街道に行きあたるけれど、瀬田貫井線と付いているくらいだから、少しクランクして永福、大宮八幡宮の脇を通って、いまの中杉通りから練馬の貫井まで行く道筋なのだろう。
豪徳寺商店街
山下商店街
菅原天神通り
菅原天神
神牛の像
旧尾崎テオドラ邸
営業時間/10時〜18時 休館日/木曜日(月1回 水曜日)
チケット/「事前販売チケット」と「当日販売チケット」2種類。
※詳しくは、ホームページをご確認ください
8月20日(火)まで、ながやす巧の数々の輝かしい業績の節目の年に昭和を代表する伝説の漫画「愛と誠の世界展」を開催。
泉麻人 いずみ・あさと
1956年東京生まれ。コラムニスト、作家。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。「週刊TVガイド」「ビデオコレクション」の編集者を経てフリーに。東京や昭和、サブカルチャー、街歩き、バス旅などをテーマにしたエッセイを発表。著書に『大東京23区散歩』、『1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた。』、短編集『夏の迷い子』など多数。東京新聞ウェブ連載の路線バス旅エッセイの第2弾『続・大東京のらりくらりバス遊覧』、初期のコラム集『泉麻人 黄金の1980年代コラム』(三賢社) 、『銀ぶら百年』(文藝春秋)など多数。 2023年秋に平凡社より『昭和50年代東京日記ーcity boysの時代』を刊行。