甲州街道を西へ走っていると、仙川を過ぎて柴崎駅入口の信号のところから右の方へ入っていく狭い道がある。もっともこの道、逆の一方通行で、こちらから車で進入することはできないのだが、〈佐須街道〉の表示板が出た古い街道だ。僕がこの道を知ったのは、自転車で東京を巡る『東京自転車日記』というのを書いていた90年代の中頃だったが、深大寺の丘の麓に田園風景が広がる、武蔵野気分が満喫できる通りだった。
さて、今回は京王線の柴崎駅から出発する。新宿側の改札から北東方向へいく商店通りに進んで、沖縄料理の居酒屋のある角を左折すると、この道が甲州街道の向こう側の佐須街道へと続いていく。佐須街道の入り口には、いかにも郊外の旧道風情の石屋が建っている。この辺は〈深大寺通り商店街〉の別称もあるようで、その名を掲げた街灯がしばらく並んでいるが、やがて商店は途切れて畑が見られるようになってきた。道端に〝無人〟の野菜スタンドがぽつぽつと置かれている。何か1つ買っていこうか……と思って棚の野菜を物色して、結局ズッキーニ1本(¥100)を買った。
佐須街道と原山通りが交差したあたり
深大寺自然広場の山裾に広がる田んぼ
柴崎の町名が佐須町に変わるあたりから、とくに左側に昔ながらの屋敷林や蔵を構えた農家が目につくようになってくる。ちなみに「佐須」はサズと濁り読みするのが正解で、この先の虎狛神社の社司などを務めた有力者の名が由来だという。進行方向の右手には、深大寺自然広場一帯の緑の小山が、左前方の畑のなかに子供服の西松屋の看板が見えてきた(西松屋はこういう郊外の視界の開けたところによく出店する)。右方の自然広場の山裾には、おそらく東京西部で最も都心に近い田んぼ……と思しき水田が3枚、4枚と眺められ、田端の水路は街道の南側の畑の先へと流れて野川に合流する。左手の西松屋の裏手の祇園寺は堂宇や境内がきれいに整えられて、90年代に来た頃の野寺の趣は薄れてしまったが、その向かいの雑木林のなかにぽつんと鳥居が見える小さな神社は田舎じみていて気に入った。
祇園寺
雑木林のなかの小さな神社
佐須街道は武蔵境通りの先からは大沢コミュニティ通りとなって、調布飛行場の横をかすめて人見街道に合流しているが、今回は佐須町の交差点から三鷹通りに入って、中央道をくぐった脇の細道を進んで、深大寺の方へと向かう。その途中、〈化石温泉〉の旗が立つ「湯守の里」で、以前の板橋の旧中山道歩きの回(稲荷湯)に続いてひとっ風呂浴びていくことにする。隠れ宿、のような玄関から入ると、浴場は思った以上に広く、露天のスペースもあった。湯質は黒っぽい、蒲田の方なんかにも多い塩化物泉の一種だが、ここでは“古代の海水に有機物が溶けこんだ化石温泉”と銘打たれ、大昔は海底だったという1500メートルの地下から汲みあげられているそうだ。黒湯の露天風呂は、薬湯、電気風呂……いくつかに分かれていたけれど、浸かった感触として、その違いはよくわからなかった。
「湯守の里」に続く脇道
「湯守の里」
湯守の里の裏の急坂を上っていくと、深大寺城址の木立を右に見て、やがて深大寺の門前に行きあたる。出てきたちょうど正面が本堂西方の深沙大王堂。路傍に澄んだ小川が流れる参道を東の方へちょっと歩くと、名物のそば屋が並ぶようになってきて、茅葺きの山門が立つ玄関口が見えてくる。本堂(深大寺)、不動堂、釈迦堂、元三大師堂、といった中心地の堂宇を見渡して、さっそく目当てのそば屋へ……。山門前の池を望む「嶋田家」は、〈創業文久年間〉と冠された老舗。野草天そば(セット)というのを注文、天ぷらの野草の種類を尋ねると、ヨモギ、タンポポ、イタドリ、アシタバ(時期によって多少変わる)という。タンポポやイタドリなんて、そば屋の天ぷらとしては珍しいし、味もわるくない。そういえば、深大寺自然広場のなかに野草園もあったな……と思い、もしや?と質問したが、これは別の地の産らしい。
深大寺本堂
深大寺山門
深大寺元三大師堂
嶋田家
泉麻人 いずみ・あさと
1956年東京生まれ。コラムニスト、作家。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。「週刊TVガイド」「ビデオコレクション」の編集者を経てフリーに。東京や昭和、サブカルチャー、街歩き、バス旅などをテーマにしたエッセイを発表。著書に『大東京23区散歩』、『1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた。』、短編集『夏の迷い子』など多数。東京新聞ウェブ連載の路線バス旅エッセイの第2弾『続・大東京のらりくらりバス遊覧』、初期のコラム集『泉麻人 黄金の1980年代コラム』(三賢社) 、『銀ぶら百年』(文藝春秋)など多数。