表通りからちょっと横にそれた旧道めいた通りを歩くのは楽しい。そんな東京の好みの裏道を実際に散歩しながら紹介していこうと思っている。第1回目は、南長崎のトキワ荘通り。この道はわが生家から程近い、幼い頃の思い出がたっぷりつまった商店筋なのだ。
大江戸線の落合南長崎から目白通りを4、5百メートルくらい東進したあたりに、通称〝二又交番〟と呼ばれる派出所がある。目白通りがここで二又に分かれることからそう呼ばれているわけだが、この交番の裏手に入っていく筋がトキワ荘通りだ。ひと頃は「ニコニコ商店街」という商店街の愛称のほうがポピュラーで、さらに清瀬の清戸集落へ続く旧道ということから、「清戸道(きよとみち)」の名も伝わっていた。
この入り口にある「ほんだ薬局」は物心つく頃からの行きつけの薬屋さんで、オロナイン軟膏のノベルティーのノートとかコルゲンコーワのカエル人形とかをおじさんによくもらったが、いまはそんな幼稚園時代の同級生の本多君が店主に収まっている。ちなみにこの店では、「トキワ荘通り」という沿道の昭和時代のスナップを満載した写真集も売られている。
この通りは東京のなかでは昔の雰囲気が保たれているほうだろう。車道と歩道との仕切りのない道伝いに、戦後マーケットの面影を残す建物が2軒、3軒と見受けられる。その1つ「味楽百貨店」の建物を使って、この取材後に「昭和レトロ館」が一部オープンした。左側にラーメン店「松葉」が見える右側の横道の奥にかつて「トキワ荘」が建っていた。昭和20年代の末から30年代にかけて、手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄、石森章太郎(名は当時の表記)……といった人気マンガ家たちが暮らしていた伝説のアパート。僕の子ども時代はまさにそのピークだったはずだが、トキワ荘の存在は近所の子どもたちにもほとんど知られていなかった。ただし、資料によると、彼らマンガ家たちがよく通ったとされる「目白映画」という東宝の映画館や「椎名町書店」やケーキの「片山菊香堂」などは僕のなじみの店でもあるから、「少年サンデー」を立ち読みする僕のすぐ横に作者の赤塚さんや藤子さんたちがいた……なんて可能性はある。
豊島区立トキワ荘マンガミュージアム
トキワ荘通り入り口
そんな往年のトキワ荘を再現したミュージアム(豊島区立トキワ荘マンガミュージアム)が少し先の左手の公園(南長崎花咲公園)に建設されている。アパートの各部屋の再現とともに昭和の少年マンガの資料展示も充実している。
二又交番やほんだ薬局のある入り口から歩いてきて、このミュージアムが建つ花咲公園のあたりまでくると商店の筋は途切れて、前方にこんもりと繁った屋敷林が見える。
武蔵野らしいケヤキの大木と門脇に横長の平屋が囲いのように続いている。「岩崎家」という大地主の屋敷で、道の向かい側にもひと頃まで精米店が店を開いていた。わが家から西武池袋線の東長崎へ行く時に、通りがかるここを「岩崎さん」と目印のように親しみをこめて母が呼んでいたのを思い出す。こういうケヤキの林のある古屋敷を見ると、練馬から清瀬のほうへ続く郊外の街道の風情が感じられる。一方通行の道を練馬のほうから池袋へ行く都バスが走ってくる感じもいい(子どもの頃は相互通行だったのだ)。
都バスの「東長崎駅通り」の停留所がある、東長崎駅のほうへ入っていく道の角にぽつんと建立された平ったい墓石も昔のままだ。「伊佐佐兵衛之墓」と刻まれているのだが、人物の細かいことはわからない。すぐ裏も塀に囲まれた墓場で、コンコン通りと名づけられた横の道を進むと五郎久保稲荷神社というのがある。コンコンは稲荷のキツネからきているのだろうが、五郎久保(窪)は大正時代まで残っていたこの辺の町(字)(あざ)の名称だ。
まぁ、開拓者なんかに五郎さんって人がいた……くらいの由来だろうが、昔はこの神社の隣が東映の映画館で「怪竜大決戦」という、竜やガマが出てくる時代劇調の怪獣映画をここで観た記憶が残っている。
旧・味楽百貨店
ケヤキ屋敷 岩崎家住宅
泉麻人 いずみ・あさと
1956年東京生まれ。コラムニスト、作家。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。「週刊TVガイド」「ビデオコレクション」の編集者を経てフリーに。東京や昭和、サブカルチャー、街歩き、バス旅などをテーマにしたエッセイを発表。著書に『大東京23区散歩』、『1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた。』、短編集『夏の迷い子』など多数。東京新聞ウェブ連載の路線バス旅エッセイの第2弾『続・大東京のらりくらりバス遊覧』、初期のコラム集『泉麻人 黄金の1980年代コラム』(三賢社) 、『銀ぶら百年』(文藝春秋)など多数。