山手線の巣鴨駅の前を横断している白山通り(中山道)をちょっと西側にいくと、巣鴨地蔵通商店街の入り口がある。ひと頃〝おばあちゃんの原宿〟なんて呼び名もハヤッたこの商店街、いつも中高年の人たちでにぎわってはいるけれど、中山道の旧道にあたる〝裏道〟だ。
入ってまもなく右手に門を開けた高岩寺に地蔵の主「とげぬき地蔵」が祀られているが、門前通りに並んだ店屋を目当てにくる人も多い。塩大福で知られる和菓子屋、もんぺやはんてんの品目を掲げた呉服屋、「赤パンツ」でブレイクした店……などを横目に見ながら歩いていくと、やがて都電荒川線の踏切が見えてくる。すぐ横にあるのが庚申塚の電停で、少し手前の道にその庚申塚を置いた巣鴨猿田彦大神庚申堂が存在する。
地蔵通りは有名だけれど、庚申塚通りの名が付いたここから先のほうが寂(さび)れていて、いかにも〝裏道さんぽ〟の気分になってくる。
巣鴨猿田彦大神庚申堂
東京種苗
〈良心の店〉なんていう味のある謳い文句を掲げた理髪店があり、コクヨの古いブリキ看板を出した文房具屋があり、その先の大正大学の手前に出桁造(だしげたづく)りの古家がある。この建物は以前歩いたときから目に残っているが、ガラス戸に「東京種苗株式会社」、と記されているから植物(主に農作物)の種を扱う店だったのだ。
すぐ先の明治通りの交差点には、「堀割」の地名表示があるけれど、これは昔この付近に存在した千川上水の堀に由来するもので、僕の小学生時代まで走っていたトロリーバスの停留所名も堀割だった。そんな地名も含めて郊外の旧街道らしくなってきたが、明治通りを渡って滝野川の町域に入ってすぐ右側の一角に、このあたりの古物件を解説するプレートが立っている。すぐ横の「日本農林社」、ちょっと先の「瀧野川種苗」、通りすぎた「東京種苗」……と、種屋が集まっていたことから、〝種子屋街道〟の俗称が付いていたらしい。
古物件を解説するプレート
古物件解説板の少し先に、この道のシンボルともいえる「亀の子束子(たわし)西尾商店」の本社がある。玄関先にシュロの木が植わった、イマ風にいえばレトロモダンな西洋風の建物が竣工したのは大正12年(1923)。正面玄関から入ったスペースがいまは店舗になっていて、応待してくださった広報の方のお話では、大正12年も関東大震災より先にできていた……というから、つまり大地震の揺(ゆ)れや火災にも耐えた建物なのだ。店舗には昔ながらのタワシだけではなく、亀の子キャラをうまく使ったグッズ(Tシャツ、トートバッグ、たわし素材のクリスマスツリーも)がいろいろ陳列されていた。
亀の子束子西尾商店
旧中山道のこの辺の区間は〈滝野川銀座〉の旗看板が掲示されているが、板橋の駅に向かって横道にも商店がぽつぽつ見受けられる。その1つ、滝野川6丁目27番地のあたりを右に曲がったところに、「稲荷湯」という昔ながらの佇まいの銭湯がある。路地や小路、横丁といったほうがぴったりとくる狭い道だが、稲荷湯の向かいにはシマシマ看板の理髪店やパーマの看板の小店があって、昭和中期らしい趣きに色をそえている。
滝野川稲荷湯
銭湯を営む土本(つちもと)さん御夫妻は5代目(奥様が店主)で、おかみさんの曽祖父にあたる人が修業の後、大正初期にここで開業、いまも残る建物は、昭和5年(1930)の建築だという。関東大震災後の建物だが、先の亀の子束子と同じく昭和時代の空襲被害は免れたのだ。
まず、開業前の脱衣所で番台に座らせてもらってお話を伺ったが、いまも井戸水を使って湯をわかしているという。先の堀割に続く千川上水に近い場所だから、地下水脈が豊富なのだろう。そしてこの銭湯、脇道に面した往年の二軒長屋(かつて住みこみ従業員が使っていたらしい)を修復・再生して、畳敷きのサロン(入浴後などに一杯やる)に仕立てられているのも素晴らしい。
修復・再生した二軒長屋
午後3時の開業とともに、昔風の高天井の浴場に入って湯に浸った(亀の子束子で購入した入浴用タワシも使った)。銭湯はもちろん、日のあるうちにひとっ風呂浴びて、また町を歩き始めるときの気分は格別だ。
泉麻人 いずみ・あさと
1956年東京生まれ。コラムニスト、作家。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。「週刊TVガイド」「ビデオコレクション」の編集者を経てフリーに。東京や昭和、サブカルチャー、街歩き、バス旅などをテーマにしたエッセイを発表。著書に『大東京23区散歩』、『1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた。』、短編集『夏の迷い子』など多数。東京新聞ウェブ連載の路線バス旅エッセイの第2弾『続・大東京のらりくらりバス遊覧』、初期のコラム集『泉麻人 黄金の1980年代コラム』(三賢社) 、『銀ぶら百年』(文藝春秋)など多数。