No.66 INDEX

YR-MAG No.66

TR-MAG.

2022 WINTER

NO.66

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都電のなかで好きだった路線の1つに7番(系統)がある。北側の始点からそのコースを案内すると、四谷三丁目の交差点から信濃町、青山一丁目、墓地の脇を通って霞町(西麻布)、広尾橋、古川ぞいを走って魚籃(ぎょらん)坂下に抜けて、伊皿子(いさらご)、泉岳寺から品川駅前まで行く。三田の慶応の中学に通っていた頃に魚籃坂下から天現寺橋のあたりまで友だちと乗った記憶があるのだが、廃止されたのは昭和44年(1969)10月というから、あれはもう晩年(僕は中1)の頃だったのだ。

前に「都電は路面の区間より専用軌道の箇所が好き」というようなことを書いたはずだが、7系統は青山墓地の脇の南町一丁目、墓地下、霞町で六本木通りと交差して、広尾橋のあたりまでは車道と分離した専用軌道だった。といっても、僕が都電に興味をもった昭和40年代以降の晩年は、墓地脇にオリンピック道路(一部は外苑西通り)が敷設(ふせつ)されて専用軌道ではなくなった。霞町から先の道は後年「地中海通り」なんてオシャレな愛称が付けられたけれど、都電時代の赤十字病院下という電停のあたりは路端の草深いところに枕木のある線路が通っていて、田舎のローカル鉄道の小駅みたいな趣きがあった。

この場所をよくおぼえているのは、道(外苑西通り)を愛育病院(現・愛育クリニック)なんかのある側に渡った先にイトコの家があって、中1の途中からこの家のおばさんに英語を習っていたからだ。月に1、2度くらいのペースだったと思うが、時期的にみて廃止寸前の都電が走っていた可能性はある。ここで、都電に乗った記憶はないものの、廃止後もしばらく「赤十字病院下」の電停看板が掲げられたままだった、というおぼえがある。イトコの家に行くときは、渋谷から「日赤産院(現・日赤医療センター)」行の都バス(学パスなので料金が安い!)を使うことが多かったので、坂を下ったところにある「赤十字病院(下)」という、どことなく古めかしい都電停留所の名が珍しかったのだ。

写真の1200形の都電が向かっている次の広尾橋は日比谷線の広尾の駅前で、割と最近まで都バスの停留所も広尾橋だったと思うが、この橋は昔(といっても戦前)流れていた古川の支流の笄(こうがい)川に架かっていたもの。イトコの家のあたりには、「笄町」という風雅な町名も付いていた。

広尾橋の先の都営アパートのところには都電の車庫があって、廃止寸前の頃に都電を見にきたことがあった。中1の頃に魚籃坂下から友だちとこの7系統に乗ったのは、もしや電車好きのS君と都電を眺めにきたのかもしれない(S君とは玉電のサヨナラ運転のときに一緒に写真を撮りに行った)。

電停の名前でいうと、魚籃坂下の次の伊皿子(いさらご) は、ファンタスティックだった。周辺にいたインベイスという外国人の名が元、あるいは外国人の通称であるエビス(イビス)が由来……などの解説が出回っているけれど、なぜ「皿」の字をあてて「イサラゴ」の読みになったのか……という説明にはなっていない。伊皿子の名は今も交差点の道路表示板に記されているけれど、この辺の三田の寺町は佇まいのいい古い寺堂がよく残っていて、散歩するには格好のエリアだ。

ところで、初めの方でふれた往年の青山墓地脇の専用軌道――マニアックな鉄道写真集にたまに載っていたりするが、数年前に手に入れたTVドラマ「月光仮面」(昭和33〜34年)のDVDを眺めていたら、月光仮面がドクロ仮面と格闘する青山墓地の端っこに草深い軌道がチラッと映りこんでいた。あの番組は麻布あたりでよくロケされていた(完成途中の東京タワーが見えるシーンは有名だ)ようだから、DVDをすべて揃えてつぶさにチェックすれば、都電のお宝画像がもっと見つかるに違いない。

いずみ・あさと

1956年東京生まれ。コラムニスト、作家。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。「週刊TVガイド」「ビデオコレクション」の編集者を経てフリーに。東京や昭和、サブカルチャー、街歩き、バス旅などをテーマにしたエッセイを発表。著書に『大東京23区散歩』、『1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた。』、短編集『夏の迷い子』など多数。東京新聞ウェブ連載の路線バス旅エッセイの第2弾『続・大東京のらりくらりバス遊覧』、初期のコラム集『泉麻人 黄金の1980年代コラム』(三賢社) 、1月下旬に『銀ぶら百年』(文藝春秋)を刊行。

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