No.65 INDEX

YR-MAG No.65

TR-MAG.

2021 AUTUMN

NO.65

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神田の須田町から神保町にかけてのあたりは、僕がはじめて〝意識的な街歩き〟をした界隈だ。意識的……というのはつまり、近所の菓子屋やモケイ屋に何か買いに行ったついでにブラつく、というようなのではなく、電車なんかに乗って目当ての街をわざわざ歩きに行ったという経験。小学5年か6年の頃のことだと思うが、以前にも紹介した当時の日記帳に「神田のまち」と題して、その辺を散歩した旨が書かれた一文がある。「十二月二十九日」と頭に日付があるが、これは小6だった昭和43年(1968)の暮れの話だ。

「進学教室の帰り、付近の神田淡路町、小川町あたりを歩いてみた。この付近は本屋が多いと聞いたが、ぼくの見たところでは大きい店が二けんだけだった。また古い本屋がずらりと並んでいると思っていたのに、全く予想はずれで、二けんとも近代的なビルだった。本屋街はもっと奥の方かもしれないが、このへんにくると、何か都心という感じがただよう。」

僕は中学受験者だったので、追い込みのこの時期は年末とはいえ、御茶ノ水近くの大学予備校の教室を借りて行われる進学教室の講座に通っていたのだ。池袋から丸ノ内線でこちらの方に来ていた僕は、淡路町を起点にして歩くことが多かったが、文章に「本屋街はもっと奥の方かも」とあるように、この時は確か駿河台下の交差点あたりで引きあげてしまったのだ。そして、当時は「古本屋とは古い建物でなくてはならない」と思い込んでいたふしがある。さてこの日記文、次にこういう一節が続く。

「都(みやこ)名物、都電もこのあたりはまだひっきりなしに通る」

昭和43年の暮れには2つ3つの系統が廃止されていたと思うが、淡路町より1つ東方の須田町交差点にはこの1年ほど前まで、南北の中央通りに6系統、東西の靖国通りに4系統、計10系統(路線)もの都電が集合していたのだ。そう、淡路町から本屋のある小川町、神保町の方ではなく、万世橋の現在のマーチエキュートの西側にあった交通博物館を覗きに行くこともあって、この時に須田町から万世橋にかけての広い通りを何両も往き来する、まさに〝都電銀座〟的な景色を眺めた記憶がある。

マーチエキュートの館内には昔の万世橋駅の遺構が一部保存されているけれど、この駅が立派なレンガ建ての駅舎を備えて機能していた戦前、靖国通り側の広場には日露戦争の英雄・広瀬中佐の大銅像が置かれ、東西南北へ向かう市電(都電)の乗り場が設けられ、つまりかつては東京駅や上野駅に匹敵するターミナルだったのだ。

小6くらいの僕は、件(くだん)のリコーオートハーフというカメラ(池袋の回でふれた)をもう使っていたはずだが、残念ながらこの辺の都電を撮影したスナップはない。今回、使用しているのは、いくつかの写真のなかで、「コレは!」と目にとまった、須田町・万世橋をゆく40番の7000形をとらえた写真だ。40番というのは銀座7丁目から駒込の神明町車庫まで行っていた系統で、都電がくぐろうとするガードは中央線、その先の6000形っぽい都電が見えるのが万世橋の交差点あたりだろう。

しかし、僕がこの雨天のモノクロ写真に反応したのは都電車両自体ではなく、中央線ガードのすぐ向こうに垣間見える「牛」のネオン看板。この牛のマークは、「肉の万世」に違いない。ステーキやハンバーグでおなじみのレストラン「万世」は、今も高いビル建てになって健在だが、先の日記の3カ月後ぐらいだったか、晴れて慶應の付属中学に合格した僕は他4、5名の有名中学合格者と共に進学教室のヤナギモトという主任的な人から「万世」で鉄板焼ハンバーグをごちそうになったのだ。それがはじめての「万世」来店だったので、よく覚えている。

あのハンバーグ、もちろん経費で落ちたのだろうが、なかなか椀飯振舞(おうばんぶるま)いな塾(日進という当時の名門)だった。

いずみ・あさと

1956年東京生まれ。コラムニスト、作家。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。「週刊TVガイド」「ビデオコレクション」の編集者を経てフリーに。東京や昭和、サブカルチャー、街歩き、バス旅などをテーマにしたエッセイを発表。著書に『大東京23区散歩』、『1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた。』、短編集『夏の迷い子』など多数。東京新聞ウェブ連載の路線バス旅エッセイの第2弾『続・大東京のらりくらりバス遊覧』、10月末に三賢社より初期のコラム集『泉麻人 黄金の1980年代コラム』を刊行。

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