No.63 INDEX

YR-MAG No.63

TR-MAG.

2021 SPRING

NO.63

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東京の東北側の玄関口・上野の周辺には多くの都電が走っていたけれど、とりわけ不忍池の東岸の専用軌道区間は魅力的だった。

上野広小路の不忍通りの入り口のあたりから蓮(はす)池の東側を進んでいくこのルートを使っていたのは、20、37、40番の3つの系統。37と40は銀座通りの都電と同じく昭和42年(1967)の12月初めに廃止されてしまったが、20番(須田町――江戸川橋)は、70年代に入った昭和46年(1971)3月中頃までがんばっていた。その晩年、僕は中学生になっていたからその気になれば乗車できたはずだが、こちらの方まで来なかったのが悔やまれる。

今の「下町風俗資料館」の脇から往年の都電軌道をなぞるように歩いていくと、すぐ右手の路地に「上野オークラ劇場」というポルノ系の映画館がある。愛読する加藤嶺夫(かとうみねお)さんの写真集『昭和の東京 台東区』の中に〈男を喰う乳房〉という衝撃的タイトルの映画看板を掲げたこのオークラ劇場の前身・「上野スター座」のすぐ向こうを都電が走るユニークなスナップ(昭和44年[1969]6月)が載っているけれど、つまりこの小さな劇場は半世紀前からこういうピンク路線でがんばっているのだ。

池畔(ちはん)の軌道は弁天堂の出島入り口のあたりで動物園通りと合流、右側の崖上には神社やレストランの精養軒が見える。この上野の精養軒は子どもの頃に何度か来て好物のマカロニグラタンを食べさせてもらったものだが、その当時の都電の記憶はない。とはいえ、ちょっと先で都電軌道の上を横断する上野動物園のモノレール(これも東京都交通局の管轄なのだ)には何度か乗ったはずだ。その当時は園内に名物の〝おサルの電車〟も走っていたから、上野公園は〝のりもの天国〟だったのだ。そう、忘れてはいけない、池の西岸の不忍通りの方にはトロリーバスが走っていたのである。

モノレールの下をくぐるあたりから、昔の都電は左手の園内(当時は西園の塀際)の方へと外れていって、池之端2丁目の丁字交差点手前で不忍通りと合流する。ほぼ往時の電停(池之端七軒町。廃止直前は池之端2丁目)の位置に線路の一部をアスファルトに埋め込むように残して、7500形の車両が保存されているが、この黄緑&アイボリーの車両自体は廃止後のもの(荒川線で活躍していた)だ。

保存車両の東側の後方に上野グリーンクラブという園芸植物の施設が建っているけれど、この敷地は昔の都電軌道の跡で、確かに線路が湾曲しながら上野公園の方へ続いていたと想像できる形状をしている。奥の方に上野の山と東京スカイツリーが垣間見えるから、都電が走っていたら絶景ポイントになっていただろう。

さて、ここで合流する不忍通りには、池の西岸から来るトロリーバスも走っていた。都電とトロリーバスが並走していた当時の道幅は現在の半分くらいで、沿道の建物も低く、古めかしかった。不忍通りには高層ビルが目につくようになったものの、根津に向かって1本裏手の通りに入り込むと、懐かしい雰囲気の建物がまだぽつぽつと見受けられる。

3階建ての料亭風の木造建築が印象的な串揚げ料理の「はん亭」は、そもそも大正時代に創業した〝下駄の爪皮(カバー)屋〟の建物だったという。その先にも洋風建築を取り入れた趣のある日本屋敷、行き止まりのようで実は抜けられる路地……歩いていて面白い界隈が続く。

言問通りを渡って谷中の町域に入ると、急坂の上に昔ながらの草深い寺が並んでいる。この辺の寺町歩きも楽しいけれど、上野公園から不忍通りを進んできた101系統のトロリーバスは、根津の交差点を右折して言問通りに入って亀戸駅前まで行っていた。同じルートを今も都バス(上26系統)が走っているので、古建築の人気喫茶「カヤバ珈琲」の前の谷中バス停あたりからコレに乗って、往時のトロリーバスのルートを辿るのもいい。

いずみ・あさと

1956年東京生まれ。コラムニスト、作家。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。「週刊TVガイド」「ビデオコレクション」の編集者を経てフリーに。東京や昭和、サブカルチャー、街歩き、バス旅などをテーマにしたエッセイを発表。著書に『大東京23区散歩』、『1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた。』、短編集『夏の迷い子』など多数。2月に東京新聞ウェブ連載の路線バス旅エッセイの第2弾『続・大東京のらりくらりバス遊覧』を刊行。

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