池袋駅前(東口)の都電が映り込んだ写真が手元に2枚ある。まずは、工事現場の一角に旧塗装の都電が3両並び、その奥にバスターミナル、三和銀行などが見られるモノクロの写真——これはわが父親が若い頃に撮影したもので、昭和20年代の終わり頃と思われる。
30年くらい前、父が使っていた古机の抽出(ひきだ)しのなかからネガを発見、僕が紙焼きに出したものなのだが、他にも何点か街並みをとらえたカットがあった。母に聞いた話では、ダブルレンズのカメラに熱中していた時期があったらしい。
しかし、ピントの合ったなかなか本格的な写真である。ボンネット型のバスは全て昭和33年(1958)頃までのカラー(暗緑+灰)の都バス、一見つながっているような3両の都電も、暗緑+アイボリーの旧塗装時代の3000形だ。
三和銀行は現在三菱UFJ銀行があるビルになっている所。その隣にやがて三越ができるのだが、写真当時はまだ平屋の店が集まっている。ルーペをあてて工事現場を細かく眺めてみると、〈急ぐ時こそ注意が肝心〉なんて標語看板の左下あたりの小屋に〈地下鉄工事〉と掲示されているから、これは地下鉄丸ノ内線の建設工事だろう。池袋駅の開業は昭和29年(1954)の初めだから、この散らかった感じからすると、写真撮影は昭和27年(1952)か28年……通行人の服装(白シャツ、半袖が目立つ)から察して季節は夏。
ところでこの上から俯瞰(ふかん)するような写真、どこから撮ったのだろう......さすがにシロートがヘリ空撮できるわけはない。そうか、西武デパートの高い所か......しかし、窓やフェンスが邪魔するのではないだろうか。などと推理しながらネットをチェックしていたら、工事現場や三和銀行がコレとほぼ同じ構図で映った古写真がアップされていた。そちらには西武の昔の屋上看板が写真の端に入り込んでいるから、父の写真も往年の西武デパート屋上から撮影した......と考えて間違いないだろう。この場所から変わりゆく池袋の駅前にカメラを向けるのが、写真愛好家の間でちょっとしたハヤリだったのかもしれない。
そして、もう1点のカラー写真は中1くらいの僕が以前にも触れたリコーオートハーフという初めてのカメラで撮影したもの。父の写真とは角度が違う、グリーン大通りの側から電停の都電を狙ったのだ。都電の車番は3102。父の写真の都電の側面をよく見ると、おっ!真ん中の電車は3102。塗装は変わっているものの、同一車両だったのだ。
系統番号は17番。この路線は護国寺、春日通りを走って水道橋、神保町、神田橋から呉服橋を経由して数寄屋橋の交差点の所まで行っていた(土日は江戸川橋終点の20系統も臨時にここまで来ていたらしい)。
写真は撮ったものの、ここから実際に都電に乗った記憶は残っていない。中1の頃と断定したのは写真裏に〈フジカラープリント T69〉という1969年(昭和44)を表す刻印があるのと、背景のデパートである。ちなみにこの17系統の都電の廃止は昭和44年10月25日(最終運転日)なのだが、右手のマルに「物」マークの丸物デパートもこの年閉業して、11月23日にパルコに変わった。都電を待つ人たちも父の写真と違ってしっかりスーツを着ているから、秋も深まる10月頃に消える都電と丸物を記録しにやって来たのではないだろうか。
もう1つ細かいことをいうと、右側に停まっている黄色に赤帯の都バスのカラーも、クリーム+青の配色に変わりつつある頃だった。
バスの右側に見えるタカセというレストランは今も健在だが、当時池袋の西武にやって来るとここのケーキ(デカい!)を買って帰るのが定例だった。父の写真にも〈森永ベルトライン〉の看板で映っている。
そう、丸物の屋上端に〈連絡橋〉と読みとれる看板が確認できるが、これは隣の西武屋上とを結ぶちっぽけな鉄橋で、その非常階段みたいな小橋を往ったり来たりするのが子どもにはおもしろかった。そんな丸物の閉館間際に記念に買ったと思しき〈プレイランド〉という屋上遊園地のキップがストックブックの一隅に収まっていた。
いずみ・あさと
1956年東京生まれ。コラムニスト、作家。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。「週刊TVガイド」「ビデオコレクション」の編集者を経てフリーに。東京や昭和、サブカルチャー、街歩き、バス旅などをテーマにしたエッセイを発表。著書に『大東京23区散歩』、『1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた。』、短編集『夏の迷い子』など多数。
2月に東京新聞ウェブ連載の路線バス旅エッセイの第2弾『続・大東京のらりくらりバス遊覧』を刊行。