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YR-MAG No.62

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2021 WINTER

NO.62

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僕が都電に興味をもったきっかけは、銀座の都電が廃止される——、というニュースだった。ちょっと皮肉な話だが、それは小学校5年生の冬、昭和42年(1967)の12月9日のことである。この日をもって、銀座通りを走る1番の都電をはじめ、9つの系統が姿を消した。銀座はタテ筋の晴海通りを走る線が翌年くらいまで残っていたはずだが、鉄道馬車の時代からの象徴的なちんちん電車のルートが消えるというので廃止日の前から話題に上っていたことを思い出す。そして僕は、当日発行された記念乗車券(東京都電 ご愛顧感謝乗車券)を買いに行った。

当時、宿題で書いていた日記にそのことが記述されているが、当日は土曜日で午前中に授業が終わったのだ。家からバス1本で出られる池袋まで行って、西武の前の都電乗り場(この17番の都電は翌年まで走っていた)でベテラン風の車掌さんから買ったことをよく覚えている。が、この時丸ノ内線1本で行ける銀座まで出向かなかったのが悔やまれる。記念乗車券を入手して、ある程度満足してしまったのかもしれない。その頃、日記と並行するように熱中していた、新聞記事のスクラップ帳に、銀座通りを走った花電車とそれに乗って観衆に手を振る美濃部都知事の写真を掲載した記事のキリヌキが貼り付けられている。

都電好きの獅子文六(ししぶんろく)は、廃止論が盛んになってきた昭和41年頃から、1番の都電(品川駅前—上野駅前)に改めてじっくりと乗車して、その旨を『ちんちん電車』という随筆集にまとめている。往年の車窓風景(主に獅子が慶應の学生だった大正時代初め頃)と昭和40年代初めの当時を比較する格好で文章は綴られているのだが、銀座通りの柳の並木についての持論がおもしろい。

——銀座の柳というものに、私は一向に魅力を感じず、水もない街路に、あんな木を植えたって仕方がないと思うのだが、昔は松と桜の並木だったのを、なぜ柳にしたかというイワレは、あの出雲町の交番に、巡査が立っていて、夏の日のカンカン照りには、可哀そうだというので、日影の多い柳の木を、交番の側に植えたのが、ハジマリだという。誰が植えさせたかというと、資生堂のオカミさんなのである。——

この説の信憑性はよくわからないが、銀座通りの柳は関東大震災以降、何度か植えかえられ、戦災復興後からしばらく存在した最後の柳はこの都電廃止時の道路整備(電柱撤去や歩道改修)に伴って姿を消したという。

銀座の街並が記録された映画は数々あるけれど、なかでも「都会の横顔」(監督・清水宏)という昭和28年(1953)の東宝映画は、冒頭、都電の運転席に据えたカメラからの銀座通りの沿道風景がタイトルバックに使われている。

池部良扮するサンドイッチマン(鶴田浩二の歌もヒットして、銀座のサンドイッチマン自体がブームになっていた)が、まだ下に川が流れている新橋の橋上あたりで迷い子になった女の子の母親を探して、南(8丁目)から北(1丁目)へと銀座通りを行ったり来たりする、というたわいないストーリー。どうやら銀座商店会協力のもとの復興記念の映画らしいが、往時の銀座の風景を堪能できる。

この映画には、獅子文六が嫌う柳の並木もたっぷり写りこんでいるが、“出雲町の交番”とおぼしき古めかしいポリスボックスが資生堂(パーラーの入っているビル)の角にちょこんと置かれていて、池部が迷い子の母親らしき人のことをおまわりさんに尋ねる場面がある。そうか、獅子文六が言う出雲町交番、昭和28年当時はまだ健在だったのだ。

その翌年の昭和29年、PCCカーと呼ばれた流線型の車両・5500形が銀座通りを走る1番の系統にのみ登場する。僕が所持する記念乗車券にも〈5501〉の番号を入れた1号車(この1号車だけがアメリカ・PCC社で製造された真のPCCカーと聞く)が描かれているが、この車両は保存されて、今、荒川車庫の「都電おもいで広場」でピカピカに再塗装された姿を眺めることができる。コンクリートビルが建ち並ぶ銀座通りがよく似合う、モダンなスタイルをしている。

いずみ・あさと

1956年東京生まれ。コラムニスト、作家。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。「週刊TVガイド」「ビデオコレクション」の編集者を経てフリーに。東京や昭和、サブカルチャー、街歩き、バス旅などをテーマにしたエッセイを発表。著書に『大東京23区散歩』、『1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた。』、短編集『夏の迷い子』など多数。2月に東京新聞ウェブ連載の路線バス旅エッセーの第2弾『続・大東京のらりくらりバス遊覧』を刊行。

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