No.60 INDEX

YR-MAG No.60

TR-MAG.

2020 SUMMER

N0.60

1980年代の初め頃に勤めていた雑誌の編集部が勝鬨橋のすぐそばの小さなビルに入っていた。もうこの当時、橋が開くことはなかったけれど、僕が幼い頃は、〝ハ〟の字型に真ん中が開いた橋の光景がよく絵本に載っていたものだ。

そんな小学校の低学年の頃に、晴海埠頭の博覧会場で催された鉄道博覧会とか自動車ショーとかに連れてきてもらったことがあって、そのとき銀座から晴海の方に向かうバスが途中で渋滞にひっかかって一向に着かなかった、という記憶がぼんやり残っているが、あれは勝鬨橋の跳開にぶつかったのかもしれない。道の中央に都電も走っていたはずだが、残念ながらここを走る都電に乗ったことはない。

勝鬨橋は戦時中の昭和15年(1940)に約7年の歳月をかけて完成(同年にオリンピックとともに晴海で開かれる予定だった世界大博覧会を目当てにしたものとされる)、ここに11系統の都電路線が敷設されたのは戦後の昭和22年(1947)暮れのことだったという。その5年後の昭和27年(1952)に封切られた「東京の恋人」(監督・千葉泰樹)という原節子の主演映画に勝鬨橋を走る都電のシーンがある。月島あたりの安アパートに暮らす街頭画家(似顔絵が得意)の原と〝三銃士〟を名乗る靴みがきの3人トリオ(小泉博らが演じる)が都電で職場の銀座へ出る途中、勝鬨橋の跳開タイムにひっかかって延々と待たされる。さらに、別のシーンでは彼らの仲間の女の子が都電車窓からうっかり指輪を落下、ちょうど橋の跳開が始まろうとするときで、線路の溝に落ちた指輪はコロコロと転がって、下の隅田川にチャポン。これが物語の重要なカギとなる指輪なのだった。

ところで、僕は以前、橋の一角に設けられた操縦室で橋の開閉作業をやっていた人に取材をしたことがある。そのとき伺った話によると、当初は日に5回開けられていたのが、交通渋滞に伴って3回に減り、開ける頻度が少なくなるにつれて線路の溝に溜まった土や埃が70度ほどの勾配をガサーッと滑り落ちてきて、あたり一帯に塵芥(じんかい)の煙が立ちこめたらしい。今、古い写真で眺めると風情が感じられるけれど、当時の現場は大変だったのだ。

新宿から四谷、皇居の堀端の三宅坂を下って銀座を西から東へと縦断していたこの11系統の都電が廃止されたのは昭和43年(1968)2月の末、勝鬨橋の最後の跳開が同年3月(その後の点検やイベントを除いて)というから、作業的にも申し合わせたのかもしれない。

さて、この11系統の晩年の終点は月島の交差点をちょっと相生橋の方へ行った新佃島だった。ほぼ今の地下鉄の月島駅あたり。

新佃島の電停を使っていたのは11系統ともう1つ、23系統。この23番の都電は1970年代に入った昭和47年(1972)11月11日まで運行されていたのだ。

そう、以前この連載で石立鉄男の主演ドラマ「水もれ甲介」に登場した鬼子母神や雑司ヶ谷界隈の都電に触れたけれど、同じシリーズの「パパと呼ばないで」には23系統が健在だった新佃島の電停が登場する。主人公の石立とその娘(正確には石立の亡くなった姉の娘)のチーボーこと杉田かおるが下宿する米屋がこの電停のある清澄通りをちょっと佃島側に入ったあたりに設定されていたからだ。

そして、このドラマが面白いのは身近な時事ネタが巧みに取り入れられていたこと。昭和47年10月4日に放送が始まって、当初石立は新佃島から都電で通勤していたのだが、12月10日放送の10話目で都電は廃止されてしまう。この話のオチは、いつものクセでうっかり電停のある道路の真ん中に行こうとする通勤の朝の石立を、道の向こうからチーボーが可愛らしくとがめる。
「パパー、もう都電ないのよ」
確か、この後、道端の停留所にやってきた「代替」マークの都バス(都電廃止直後のルートを走った)に乗りこもうとするシーンまで収められていたはずだ。

いずみ・あさと

1956年東京生まれ。コラムニスト、作家。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。「週刊TVガイド」「ビデオコレクション」の編集者を経てフリーに。東京や昭和、サブカルチャー、街歩き、バス旅などをテーマにしたエッセイを発表する一方、テレビにも出演しコメンテーター、司会等を務める。著書に『大東京23区散歩』、『カラー版 東京いい道、しぶい道』、小説『還暦シェアハウス』、『1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた。』、短編集『夏の迷い子』など多数。

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